2005.10.22
All in all is all we all are
スポーツジムにある、ジョギングマシーンのどこが楽しいのだろうと、常々思っていた。走ることはすばらしい。でもそれは、過ぎゆく風景の中や、吹き抜ける風の中を走るから楽しいのであって、神経症のハムスターのように、機械の上でバタバタと走り続ける事のどこに喜びがあるのだろうと。
でも最近、職場の目の前に新しいスポーツジムがオープンして以来、ジョギングマシーンの楽しさに目覚めてしまった。ニルバーナの”Son of a gun”という曲を、iPodから大音響で聞きながら走ると、いつまででも走り続けられる事が分かったからだ。規則的に反復される単調なリズムと、重いドラムのビートの上に、カートの甘い歌声が乗っている。僕は、走るペースと呼吸のリズムを徐々にその曲に合わせていく。吸って吸って、吐いて吐く呼吸。最初はひどく苦しく飽きてしまいそうになるが、数十分も耐えて曲のビートと体のリズムが一体化する頃には、自分がジムで走っているのだという事さえ忘れてしまう、気が付けば意識は肉体を離れる。遠くで、カートは” The sun shines in the bedroom”と歌い続けているが、僕の意識はより深い層に入り込んでいて、過去や未来を辿って思索を続けている。それはプールですごく長い時間泳ぎ続けた後にくる感覚にも似ていて。
昔々、僕にはしばらく誰とも口をきかずに過ごしていた時期があった。その時僕は、個人的なトラブルを抱え込んでいて、誰とも会わずに黙々と暮らしていた。数ヶ月の間だったと思うが、僕は、朝きちんと一人で起きて、プールに行き2時間近くみっちりと泳ぎ、きちんと料理をして食べ、夕方には10キロ近くジョギングをする生活を続けた。出来るだけ、部屋をきれいにするよう心がけ、その圧倒的な逆境のなかでも、志気だけは高く保つように心がけた。激しい運動は僕の肉を削ぎ、激しい孤独感は僕の心を削いだ。その時期の僕は、たまに人と会って話をする事があっても、相手との間に透明な膜が掛かっていて、どうしても上手くコミュニケーションをすることが出来なかった。でも、周りの人達は誰一人僕がそのような極限的な状態に追いつめられているということに気が付かないみたいだった。閉じこもった殻の外側で、機械的に話をしたり、技巧的に笑ったりしている僕も、表層的にはそんなに違和感はなかったのだろう。その時の事を思い出すと、いつも僕は泳いでいたプールの事を思う。プールの底の青いタイルに映った僕のシルエットの事を。泳ぐ事それ自体はすばらしい。ただ泳ぎ続けたことは、何一つ僕のつらさを取り除いてはくれなかった。たっぷりとかけることができた時間だけが僕の味方であった。それでも、午前中の人のいないプールで、静かに一人でクロールを続けていると、ふと自分が泳いでいる事を忘れて、空中に浮かんですっと移動を続けているような錯覚に落ちたし。僕と、青いタイルの上の僕の影だけがいる非日常な空間で、お互いに向かい合っているような時間が、絶望的な現実と闘い続けていた僕を支えていたのだろうとは思う。
ジムで1時間も走り続けると、僕の体からは玉のような汗が噴き出し、ジョギングマシーンの上にぼたぼたと落ちる。あまりの苦しみに、口からはうめきが漏れる。苦しすぎて、カートに合わせて歌ったりもする。前を歩く、黒人の女の人がじろっと僕を見返す。なんで、こんな事をしているのだろうと思う。それでも、走り終えて、息を整えながら、目の前の巨大なガラスの向こうに映るサンフランシスコのダウンタウンの夜景を見ると。霧が背の高いビルの上だけを覆っていて、その隙間からうっすらと月が見えて。目がくらくらするような状態で見るそんな一瞬の風景が、とても心に染みて、また走ろうと思ったりもする。
僕は上原隆の書いた「友がみな我より偉く見える日は」という本が好きだ。この本には、徹底的に自尊心を砕かれるような現実に直面したとき、人はどうやってその絶望から自分を立て直すのかという事が書いてある。結局、僕にとっては、激しい運動も、痛烈な孤独感も、絶望から立ち直る手段にはならなかった。その時僕を襲った絶望は、そのままの形でいまでも僕の中にある。でも、いつの日か、それを描き出してみたいと思う。カートが歌う歌のように、”All in all is all we all are(この世界で、人は悲しい思いもするけど、それら全てを含めてこの世界を肯定するしかないのだ)”という境地に達する事が出来るように
でも最近、職場の目の前に新しいスポーツジムがオープンして以来、ジョギングマシーンの楽しさに目覚めてしまった。ニルバーナの”Son of a gun”という曲を、iPodから大音響で聞きながら走ると、いつまででも走り続けられる事が分かったからだ。規則的に反復される単調なリズムと、重いドラムのビートの上に、カートの甘い歌声が乗っている。僕は、走るペースと呼吸のリズムを徐々にその曲に合わせていく。吸って吸って、吐いて吐く呼吸。最初はひどく苦しく飽きてしまいそうになるが、数十分も耐えて曲のビートと体のリズムが一体化する頃には、自分がジムで走っているのだという事さえ忘れてしまう、気が付けば意識は肉体を離れる。遠くで、カートは” The sun shines in the bedroom”と歌い続けているが、僕の意識はより深い層に入り込んでいて、過去や未来を辿って思索を続けている。それはプールですごく長い時間泳ぎ続けた後にくる感覚にも似ていて。
昔々、僕にはしばらく誰とも口をきかずに過ごしていた時期があった。その時僕は、個人的なトラブルを抱え込んでいて、誰とも会わずに黙々と暮らしていた。数ヶ月の間だったと思うが、僕は、朝きちんと一人で起きて、プールに行き2時間近くみっちりと泳ぎ、きちんと料理をして食べ、夕方には10キロ近くジョギングをする生活を続けた。出来るだけ、部屋をきれいにするよう心がけ、その圧倒的な逆境のなかでも、志気だけは高く保つように心がけた。激しい運動は僕の肉を削ぎ、激しい孤独感は僕の心を削いだ。その時期の僕は、たまに人と会って話をする事があっても、相手との間に透明な膜が掛かっていて、どうしても上手くコミュニケーションをすることが出来なかった。でも、周りの人達は誰一人僕がそのような極限的な状態に追いつめられているということに気が付かないみたいだった。閉じこもった殻の外側で、機械的に話をしたり、技巧的に笑ったりしている僕も、表層的にはそんなに違和感はなかったのだろう。その時の事を思い出すと、いつも僕は泳いでいたプールの事を思う。プールの底の青いタイルに映った僕のシルエットの事を。泳ぐ事それ自体はすばらしい。ただ泳ぎ続けたことは、何一つ僕のつらさを取り除いてはくれなかった。たっぷりとかけることができた時間だけが僕の味方であった。それでも、午前中の人のいないプールで、静かに一人でクロールを続けていると、ふと自分が泳いでいる事を忘れて、空中に浮かんですっと移動を続けているような錯覚に落ちたし。僕と、青いタイルの上の僕の影だけがいる非日常な空間で、お互いに向かい合っているような時間が、絶望的な現実と闘い続けていた僕を支えていたのだろうとは思う。
ジムで1時間も走り続けると、僕の体からは玉のような汗が噴き出し、ジョギングマシーンの上にぼたぼたと落ちる。あまりの苦しみに、口からはうめきが漏れる。苦しすぎて、カートに合わせて歌ったりもする。前を歩く、黒人の女の人がじろっと僕を見返す。なんで、こんな事をしているのだろうと思う。それでも、走り終えて、息を整えながら、目の前の巨大なガラスの向こうに映るサンフランシスコのダウンタウンの夜景を見ると。霧が背の高いビルの上だけを覆っていて、その隙間からうっすらと月が見えて。目がくらくらするような状態で見るそんな一瞬の風景が、とても心に染みて、また走ろうと思ったりもする。
僕は上原隆の書いた「友がみな我より偉く見える日は」という本が好きだ。この本には、徹底的に自尊心を砕かれるような現実に直面したとき、人はどうやってその絶望から自分を立て直すのかという事が書いてある。結局、僕にとっては、激しい運動も、痛烈な孤独感も、絶望から立ち直る手段にはならなかった。その時僕を襲った絶望は、そのままの形でいまでも僕の中にある。でも、いつの日か、それを描き出してみたいと思う。カートが歌う歌のように、”All in all is all we all are(この世界で、人は悲しい思いもするけど、それら全てを含めてこの世界を肯定するしかないのだ)”という境地に達する事が出来るように
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はじめまして。
あたしにもこういう時間がありました。
周りからは普通でも。
本人はいたって元気でも。
何かおかしい不健康な時間でした。
また読みに参ります。<(_ _)>
あたしにもこういう時間がありました。
周りからは普通でも。
本人はいたって元気でも。
何かおかしい不健康な時間でした。
また読みに参ります。<(_ _)>
コメントありがとうございます。こういう状態って自分の意志だけでは抜け出せないので、大変ですよね。
Posted by Floyd The Barber at 2005.12.10 03:51 | 編集
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