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2009.07.18

文章について

 文章を書く事が好きだ。常に文章が上手くなりたいと思っているし、そのための努力は惜しむつもりはない。

 だけど、いまの英語主体の生活の中で、英語の文章が上手くなる必要が生じている。これは、現在では切実な問題となって、僕の主要な克服課題としてある。母国語でない英語は、どこまでいっても、上手にはなれないかもしれない。でも、不可能に挑戦し続ける姿勢というのは、僕の生き方そのものだし、日々欠かさずに英語の鍛錬を続けている。

 そういう生活の中で、ふと昔のようには上手に日本語を書けない自分がいる事に気がついた。何かを得て行く過程というのは、多くの場合、何かを失って行く過程の裏返しに過ぎないのかもしれない。

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Posted at 07:58 | 未分類 | COM(3) | TB(0) |
2008.11.20

近況

僕が想像していた以上に、波乱万丈な人生が僕を待っていて。当初2~3年で日本に帰国するつもりが、今ではアメリカ永住も視野にいれながら生活しています。ぐるぐる冒険記も、当初予定していたより壮絶に深い混迷の中をさまよう僕の記録として、ゆっくりと続けていきます。

Posted at 16:02 | 未分類 | COM(0) | TB(0) |
2008.06.01

タイタンを遠くはなれて

10年以上前に書いたブログを、アメーバーブログに転載しました。

僕は今32歳で、アメリカのサンフランシスコで生活しています。古いハードディスクの整理をしている際、偶然10年以上前に書いたブログを発見しました。1995年から1996年にかけて書かれたものです。その頃は、まだブログも一般的ではなく、僕も自分で作成したホームページのいちコーナーとしてブログを書いていました。今読み返すと、恥ずかしくなりそうな内容の物も多いのですが、そのうちのいくつかはとても良く書けていて、なおかつ今の僕ではもう書けない書き方で書いてあるので、新しくブログを作り直して公表してみようと思いました。僕にとってみれば、「思えば遠くへきたものだなあ」という部分と「今も昔もあまり変わってないな」という部分が複雑に混在していて興味深いのですが、それはあくまで’僕にとっては’の部分です。これらの文章は、10年後の現在において、いったいどのように受け取られるのでしょう。


このブログへのリンク>「タイタンを遠くはなれて」



Posted at 12:37 | 未分類 | COM(0) | TB(0) |
2008.02.28

ぐるぐる冒険記のモットー

「ぐるぐる冒険記」のモットーは、5年後に読んでも読む価値のある文章を書き残す事とします。

日本の多くのブログは、大量生産大量消費型メディアで、基本的に発表された文章はその週ぐらいにしか読まれません。「ぐるぐる冒険記」はこの流れには逆らって、ここで発表された文章は五年後に読んでも読む価値があるものにしていきたいと考えています。そのため、出来るだけ時事問題等は扱わず、日常のなかに潜むより普遍的な意味に注目して、描き出していきたいと思います。文章の形態としては、エッセイと短編小説の中間ぐらいに位置するものを目指します。

ただ、5年後にも価値が減らない文章を実際に書くのは、とても難しいことです。それには至らないエントリーもたくさん出てくるとは思いますが、それを常に目標にして文章を書いていこうと思います。

Posted at 14:16 | 未分類 | COM(0) | TB(0) |
2007.11.18

人生の大きな転機。

 いま僕は、人生の大きな転機にさしかかっています。むかし、田口ランディさんが、人生の転機の事をこのように書いていらした。「私の周りの人達は、27歳の時に自分の天職に関わるとても大きな、大きな決断をくだす。そして、32歳になったときにその大きな決断の答えを見ることになる。」

ランディさんは、すごい人だ。まるで予言者だ。全くそのまま僕に当てはまっている。

 4年ほど前に下した大きな決断のために、僕はかなり激しい戦闘に巻き込まれました。その戦闘で舞い上がった爆煙のために、今は殆ど視界がきかないのですが。もう少しして、視界が回復してきたらここで起こったことをエッセイにして書いてみるつもりです。戦況としてはおそらく僕の側の勝利なのですが、まだ局地戦的に戦闘はつづいているために、しばらくは戦闘に集中します。おそらく、エッセイとして書き始められるのは来年になって、僕が32歳になった後の事だと思います。

 書くべき、二編のエッセイがあり、どう書いたらよいのかもだいたい分かっていて。書きたい気持ちは高まりつつあるのだけど、やはりこれは正しい時期に書かれるべきものです。しばらくは、英語の世界に潜水して、正しい時期をまちます。

 僕がまた潜水している間に、もし興味があったらノアに日本語で書き残したらくがきを、ご覧になって下さい(http://falling4falling.nowa.jp)。



Posted at 07:11 | 未分類 | COM(0) | TB(0) |
2007.11.11

予告

 僕の持つ日本語でのメディアとして、「ぐるぐる冒険記」を存続させるべきかどうかを考えています。アメリカ社会の中で暮らすうちに、日本語で日本に住む人達に語りかける事が僕にとって正しい事なのか分からなくなってきたからです。

 基本的な考え方として、本当に分からない事は、分からないままにしておくというのが僕の方針なので、しばらくこのままにして考えます。

 それと同時に今年から来年にかけて、日本語であと二編のエッセイと一編の書評を「ぐるぐる冒険記」上で発表します。お楽しみに。その後のことは、とりあえずこれらの書くべきものを書き終えた段階で決めるつもりです。

Posted at 10:03 | 未分類 | COM(0) | TB(0) |
2007.08.17

旅の終わりの、最も大きな変化。

 最近、梅田望夫さんに強く影響を受けていて、いかに自分の身に起こる変化を楽しむかを考えている。

 最近、僕の身に起きた最も大きな変化は、使用言語が日本語から英語に変わったことだと思う。傍目には、これは楽しそうで有益な事に映るかもしれないが、僕自身にとっては地獄の苦しみ以外の何でもない。気分は常に鬱になるし、圧倒的な暴力の瀬戸際に立ち続けて、それでいてこちら側になんとか紙一重で留まるような日々だ。この地獄さをどうやって楽しもうかというのが、今の本当のテーマだ。

 そしてつらつら考えるに、この地獄さはマラソンを走ることに似ていると気が付いた。僕にとって、マラソンは苦しい以外の何物でもないのだが、確かに絶対にそこでしか得られない物が含まれている。この僕の挑戦も、決して他の方法では辿り着けない場所に、僕を導いてくれると堅く信じて歩くことにする。

 しばらくの間、日本語は完全に断ち切って、英語のみの世界で暮らす決意をしました。そのため、このブログの更新はしばらく難しいです。最近実名で英語のブログを書き始めたので、僕を直接ご存知の方は、そちらを読んでください。



Posted at 04:10 | 未分類 | COM(0) | TB(0) |
2007.07.16

潜水

 最近、深く潜水するように英語だけの世界で暮らすようになった。たまに、水面から顔を出すように日本語のブログを読んでいる。日本語を読むと、ほっとするのは確かだ。本当は、しばらくの間日本語は完全に断ち切ってみようと思ったのだが、これをすると気分が相当鬱になる事が分かった。基本的思考の部分で、やはり英語のみでは足りない所があるのだろう。でも、これも修行なので、より長く潜水できるように訓練していこうと思う。

 ただ、僕はもう日本のテレビを見られなくなってしまった。生理的に体が受け付けない。日本のニュースも見ていてつらいし(どうしてNHKはメジャーリーグの日本人野球選手の話ばかりスポーツコーナーでするのだろう?)、ドラマは完全に無理だ。日本のテレビが押しつけてくる世界観から、あまりにも僕個人が乖離してしまったせいかもしれない。でも、個人的に日本の番組で見たいのは有野課長のゲームセンターCXぐらいだから、それは良いことにする。



Posted at 09:59 | 未分類 | COM(0) | TB(0) |
2006.08.24

Yellowstone National Park



イエローストーンにキャンプに行っていた。深い森の中に、突如現れる熱水を吹き出す火口群は、圧巻であった。

Posted at 10:50 | 未分類 | COM(0) | TB(1) |
2006.05.19

エイゴのくるしみ。

 井上雄彦さんの”バガボンド”を人から借りて読んでいたら、「これからが、もう一つの戦だ。出会うもの、すべてを斬って生きのびる。」ってセリフが出てきた。

 その瞬間に僕は、英語を基礎原則とした日々の生活のなかで感じていたことを、ふと言葉にした。「これが、もう一つの戦いだ。日常生活のなかで一度でも出会った単語は、すべて覚えて生きのびる」

 戦国時代の武士たちも、壮絶に生きたのだと思うが、外国で外国語を使って生きることも、やはりそれなりには哀しいものなのだ。

Posted at 12:24 | 未分類 | COM(0) | TB(0) |
2006.03.10

泣かぬなら、泣かして見せよう・・・

 僕は、映画や小説を見たり読んだりして、泣く事がない。実生活では、たまに泣かされたりもするので、生理的に泣けないわけではなく、フィクションと現実の間に明確なラインが僕の中にあるのだと思う。

 もちろん、フィクションなんて、うそっぱちだよって見下しているわけではない。誰かが言っていたように、事実は真実ではないかもしれないし、真実は事実でないかもしれない訳で、フィクションの中にしかない真実を僕は信じている。ただ、感情移入の仕方が、事実とフィクションで少しだけ違うという話だ(僕にとっては)。

 でも映画で、もう少しで泣きそうになったのは「火垂るの墓」だった。これは、やばかった、あと一歩誤ったら泣いていたところだった。

 小説でも、「アルジャーノに花束を」の最後の場面で、ぎりぎりのところまで来た。僕は、涙腺との必死の格闘のすえ、なんとかそれを押さえ込む事が出来た。

 ただ、正直に言うと、一度だけ本を読んで号泣したことがある。中学生の時だ。それは、「怒りの葡萄」でも、「グレート・ギャツビー」でもなく、僕の人生で絶対に二度と読み返すことがないライト・ノベルの「銀河英雄伝説」だった。キルヒアイスが死んでしまったとき、あまりの悲しさにボロボロと涙がこぼれてしまった。「恥が多いほど人生は長くなる」と、中島らも氏は言っていたが、まさにその通りである。



Posted at 10:25 | 未分類 | COM(2) | TB(0) |
2005.09.11

「あかね空」

友人に勧められるままに、山本一力の「あかね空」を読んだ。時代小説を読んだのは高校生の頃以来だと思う。ただ、その友人はつまらない事で僕の時間を無駄にするような種類の人ではないので、その人が面白いという物には、きちんと向かい合ってみる価値があるだろうと思って読んだ。

僕は昔からそうやって本に出会ってきたのだ。上原隆の本にも、池澤夏樹の本にもそのようにして出会った。本というのは不思議な物で、きちんと時間さえかければ渡るべき人の手に渡るように出来ているのだ。

「あかね空」も読むからには、今の時代に“時代小説”なんてと斜に構えて読むのではなくて、公平な気持ちで読んでみようと思った。どんなに陳腐に響こうとも、何かを学び取るために必要なのは、愛情と理解のある姿勢なのだ。

結果的には、この本は圧倒的なエンターテイメントであった。昼下がりのビーチに寝ころんで読み始めたのだが、余りに貪るように読んだために、読み終わって、はたと気付いた時にはすでに日が陰りはじめていた。そして、若干風の吹きはじめた夕暮れのビーチで、少し波の高まった海を見ながら僕はとても暖かい気持ちに包まれていた。本の中で描かれた深い家族愛に打たれたのだ。

この話は、京の腕の良い豆腐職人である永吉が、一人で江戸に移り住み、裏町で豆腐屋を始めて所帯を持ち、やがて息子達の代になる頃には表通りに店を構えるようになるという親子二代にわたる物語である。その長い時間のなかで、永吉の家族達の思いは、何度も行き違い、その結果傷つけ合い、バラバラになりそうになるが、それでも最後は団結してより大きな困難を乗り越えてゆく。それぞれの家族の思いを、それぞれの視点から交互に辿って描き出し、それぞれのすれ違いが、もう後戻りできない臨界点に達しそうになる最後の瞬間に、それを一気に融和させえる作者の力がすばらしいし。その融和の奇跡の中に読者は現代社会が失いつつあるノスタルジックな家族愛を見るのだと思う。

ただ、読み終わったときに僕を包んだ暖かい波が去り、太陽の沈み行く海の前で冷静になって考えた時、僕は、これは時代小説という舞台の上に乗せないと機能しえない物語だと痛感する事になった。江戸時代の長屋におそらくあったであろう“下町の人情”と、“圧倒的な社会的抑圧”という、仮想的な装置の上でないと、おそらくこの物語は力を持てないだろうと。

それは、同じ家族愛というテーマで、現代社会を舞台に村上龍が書いた「最後の家族」では(その中でも家族は同じようにすれ違い、傷つけ合ってしまうのだが)、家族のメンバーそれぞれが自立し、最終的に家族がバラバラになってしまうことで、真に救われるという対極的な結末を迎える事からも分かる。この結末には、同時代を生きる人間としての非常に強い説得力を持つメッセージがあったし、逆を言えば現代社会を舞台にした「最後の家族」の中で、家族が再び団結してしまっていたら、僕は生理的にそれを受け入れられなかったと思う。

現代を生きる作家が、同じ時代を生きる読者に対して、読者が経験しえない古い時代を舞台に、しかもそこにあったであろう社会的装置を前提にして物語を物語る事が、公平な手段なのだろうかという疑問がしこりのように僕の中に残った。もちろん、「あかね空」のように、その舞台でないと語れない物語がある事は確かだが、おそらくそこが山本一力という作家の評価を分かつ部分であろうとも思う。


Posted at 15:40 | 未分類 | COM(4) | TB(1) |
2005.05.08

「半島を出よ」

hantou.jpg


村上龍氏の書いた、「半島を出よ」という本を読みふけった。この話は、膨大な情報を卓越した想像力でまとめた群像劇であり、この文章を小説とよんでいいのかという事はよくわからない。個人的には読んでいてとても面白かったのだが、同時にどうもゴツゴツとした違和感を感じもした。それはおそらく、この圧倒的な量の情報を収集する過程で村上龍氏以外の多くのスタッフが加わっていたせいなのではないかと思う。もちろん、村上龍氏はプロの小説家として、他のスタッフが作製した素材の文章の角を削り、彼自身の文脈の中へと正しく組み入れているのだが。それでも他の人を通して作製された素材は、全体としての枠組みとはちょっと違った方向にそれぞれ自己主張をしているのだ。

 ただ、この物語のクライマックスで、”天使の羽”を克明に描写してあるシーンがあって。この絵がもう、息を呑むばかりに美しくて。この美しさに出会うために、僕は電話帳二冊分もの本を夜通し読み続けなければならなかったのかと思うと、悔しくもあり、嬉しくもありな、ちょっと不思議な気持ちがした。




Posted at 07:23 | 未分類 | COM(1) | TB(0) |
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