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2005.10.22

All in all is all we all are

    スポーツジムにある、ジョギングマシーンのどこが楽しいのだろうと、常々思っていた。走ることはすばらしい。でもそれは、過ぎゆく風景の中や、吹き抜ける風の中を走るから楽しいのであって、神経症のハムスターのように、機械の上でバタバタと走り続ける事のどこに喜びがあるのだろうと。
    でも最近、職場の目の前に新しいスポーツジムがオープンして以来、ジョギングマシーンの楽しさに目覚めてしまった。ニルバーナの”Son of a gun”という曲を、iPodから大音響で聞きながら走ると、いつまででも走り続けられる事が分かったからだ。規則的に反復される単調なリズムと、重いドラムのビートの上に、カートの甘い歌声が乗っている。僕は、走るペースと呼吸のリズムを徐々にその曲に合わせていく。吸って吸って、吐いて吐く呼吸。最初はひどく苦しく飽きてしまいそうになるが、数十分も耐えて曲のビートと体のリズムが一体化する頃には、自分がジムで走っているのだという事さえ忘れてしまう、気が付けば意識は肉体を離れる。遠くで、カートは” The sun shines in the bedroom”と歌い続けているが、僕の意識はより深い層に入り込んでいて、過去や未来を辿って思索を続けている。それはプールですごく長い時間泳ぎ続けた後にくる感覚にも似ていて。


    昔々、僕にはしばらく誰とも口をきかずに過ごしていた時期があった。その時僕は、個人的なトラブルを抱え込んでいて、誰とも会わずに黙々と暮らしていた。数ヶ月の間だったと思うが、僕は、朝きちんと一人で起きて、プールに行き2時間近くみっちりと泳ぎ、きちんと料理をして食べ、夕方には10キロ近くジョギングをする生活を続けた。出来るだけ、部屋をきれいにするよう心がけ、その圧倒的な逆境のなかでも、志気だけは高く保つように心がけた。激しい運動は僕の肉を削ぎ、激しい孤独感は僕の心を削いだ。その時期の僕は、たまに人と会って話をする事があっても、相手との間に透明な膜が掛かっていて、どうしても上手くコミュニケーションをすることが出来なかった。でも、周りの人達は誰一人僕がそのような極限的な状態に追いつめられているということに気が付かないみたいだった。閉じこもった殻の外側で、機械的に話をしたり、技巧的に笑ったりしている僕も、表層的にはそんなに違和感はなかったのだろう。その時の事を思い出すと、いつも僕は泳いでいたプールの事を思う。プールの底の青いタイルに映った僕のシルエットの事を。泳ぐ事それ自体はすばらしい。ただ泳ぎ続けたことは、何一つ僕のつらさを取り除いてはくれなかった。たっぷりとかけることができた時間だけが僕の味方であった。それでも、午前中の人のいないプールで、静かに一人でクロールを続けていると、ふと自分が泳いでいる事を忘れて、空中に浮かんですっと移動を続けているような錯覚に落ちたし。僕と、青いタイルの上の僕の影だけがいる非日常な空間で、お互いに向かい合っているような時間が、絶望的な現実と闘い続けていた僕を支えていたのだろうとは思う。


    ジムで1時間も走り続けると、僕の体からは玉のような汗が噴き出し、ジョギングマシーンの上にぼたぼたと落ちる。あまりの苦しみに、口からはうめきが漏れる。苦しすぎて、カートに合わせて歌ったりもする。前を歩く、黒人の女の人がじろっと僕を見返す。なんで、こんな事をしているのだろうと思う。それでも、走り終えて、息を整えながら、目の前の巨大なガラスの向こうに映るサンフランシスコのダウンタウンの夜景を見ると。霧が背の高いビルの上だけを覆っていて、その隙間からうっすらと月が見えて。目がくらくらするような状態で見るそんな一瞬の風景が、とても心に染みて、また走ろうと思ったりもする。

    僕は上原隆の書いた「友がみな我より偉く見える日は」という本が好きだ。この本には、徹底的に自尊心を砕かれるような現実に直面したとき、人はどうやってその絶望から自分を立て直すのかという事が書いてある。結局、僕にとっては、激しい運動も、痛烈な孤独感も、絶望から立ち直る手段にはならなかった。その時僕を襲った絶望は、そのままの形でいまでも僕の中にある。でも、いつの日か、それを描き出してみたいと思う。カートが歌う歌のように、”All in all is all we all are(この世界で、人は悲しい思いもするけど、それら全てを含めてこの世界を肯定するしかないのだ)”という境地に達する事が出来るように


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Posted at 10:17 | エッセイ | COM(2) | TB(0) |
2005.05.01

草の根のアメリカ

―San Francisco-
ロシアの文豪トルストイが書いた、アンナ・カレーニナという小説は、「幸せな家庭のありようはどこも似かよっているが、不幸な家庭のありようは実にさまざまである。」というフレーズから始まる。
僕は、個々人の資質による失陥をこえた、もっと大きな社会的あるいは民族的な失陥に遭遇したときには、いつもこのフレーズを思い出す。上手くいっている部分はどれも非常に似かよっているが、どうしようもない部分は実に様々な様態をとるのだと。

僕がアメリカで暮らし始めて、二年が経とうとしている。アメリカで長く生活している人であれば、誰もが経験することなのだが、この国ではじつに多種多様な不思議な目(あるいは酷い目)に遭う。フリーウェイの真ん中に、三人がけのソファーがデンと落ちていたり、ネットで買ったDVDが全然再生出来なくてクレームをつけても相手にされなかったり、中国人夫婦に事故車を売りつけられそうになったりと、今思い出せばどれも笑い話だけど、当時はそれなりに参ってしまうような出来事に僕も遭遇してきた。この二年間、僕も僕なりにアメリカという社会の病巣の、その恐ろしく深い根を垣間見てきたのだと思う。でも、僕にとって一番印象深かったのは、職場の引っ越しにまつわる出来事だったかもしれない。

しばらく前の事だが、UCSFがミッションベイに新しいキャンパスを作り、僕たちのラボはそちらに移動することになった。研究施設のラボというのは、一般の職場よりも実験機器などがあるために、移動するべき物資が多い。そのため、ラボの引っ越しというのは非常に大変である。それに加えて今回のUCSFの引っ越しは、基礎系の非常に多くのラボがこぞって新キャンパスに移動したため、引っ越しの完了までに全部で6ヶ月ぐらいかかる大規模なものであった。長い話し合いを続けて、移動する順番や、移動する先の場所を話し合って決めて、仕事に支障がでないように移動の順番をコーディネートして、と考えただけで憂鬱な作業が待っていた。もちろん、移動の費用の管理や移動の順番のコーディネートは専門の人達が担当し、我々末端の人間は、彼等の指示にしたがって物の移動の準備をするだけでよかった。しかも、移動の準備といっても、行き先を書き込んだシールをぺたぺたと機材に貼っていく位のものだったし、僕たちに割り振られた負担は本当に最小限のものであったと思う。ここら辺はアメリカのシステムの非常に優れた所だと、僕は非常に感銘をうけた。というのも、僕はこれまでに2回日本で同じようにラボ(研究室)の引っ越しをしたことがあるのだ。そのときは、引っ越し業者との交渉や引っ越しのコーディネート、果ては物資の運び出しに至るまで、学生だった僕たちに回ってきて、大変に理不尽な思いをしながら(なんで僕がこんな事をしないといけないのだろうと思いながら)、引っ越しをした記憶がある。それに比べると、今回の引っ越しなんてファーストクラスに乗って、ハワイまで往復するぐらいの労働でしかなかった。僕は心から、アメリカ社会が貫くこの徹底した合理主義を深く愛す。

でも実際に、いざ引っ越しをしてみると、日本とはひと味違うやりきれなさを味わう事になった。僕たちのラボの引っ越しの当日、僕は朝から出向いてごった返しているラボの中で引っ越しの仕事を始めた。ラボには、総勢50人は軽く越える引っ越し業者がひしめき、ひっきりなしに物を運び出したりして、そこははなはだ混沌とした状況であった。僕は自分のデスクの周りの物は、引っ越し業者のスタッフに梱包してくれと指示を出しておいて、自分は他の場所で業者には任せられない精密機器の梱包を行った。それでも引っ越し業者は手慣れた物で、昼前にはラボにあったおおかたの荷物は運び出されてしまい、今朝までフルに機能していたラボは、一瞬で廃墟の様になってしまった。さらに、次の日の朝には、梱包された荷物がミッションベイの新しいラボに下ろされ、山のように堆く積まれていた。僕たちはそれから丸二日かけて、梱包を解き、新しいラボに新しい秩序を与える作業に奮闘した。二日経ってラボの中が当初の混乱からある程度回復してきたころ、ラボのメンバーの一人が騒ぎ出した。「ラボのメインコンピュータがない!キーボードもディスプレーもあるのにコンピュータ本体がどこにもない。」最初僕たちはどこか別の段ボール箱に入っているのだと思って取り合わなかった。でも、すべての段ボールを開け終えてもコンピュータはどこにもなかった。デルの最新型の小型デスクトップは、ラボのデータをすべて飲み込んだまま引っ越しの混乱の中に消えてしまった。僕は、頭の中が白くなりそうだった。というのも、コンピュータは買い直せるが、そこに入っていたデータはお金では買えないからだ。幸い、僕個人は一週間ぐらい前にバックアップをとっておいたので、失ったデータは一週間分ぐらいに留まったが、それでも、だれがその一週間の労働を弁償してくれるというのだ。その怒りの中で僕はふと不安になった。なぜなら、ラボのメインコンピュータは僕のデスクの隣に置かれていたからだ。そこで、自分のデスクの荷物を注意深く見てみると、日本から持ってきたMOディスクドライブと、コンピュータソフトウェアの幾つかが消えて無くなっているではないか。泣きっ面に蜂とはこのことで、最新のデータは無くなるし、日本から持ってきたデータはディスクドライブが無くなって読めなくなるしで。当然燃えるように怒ったけど、もうそれ以上に僕は虚無感に捕らわれてしまって、“僕は一体こんな所で何をしているんだろう?”という問いが頭の中をぐるぐる回ってしまった。でも、冷静になって考えてみても僕のデスクの周りを梱包した、引っ越し業者がラボのコンピュータや僕のディスクドライブを盗って持っていったとしか考えられないのだ。でも、50人以上いた引っ越し業者の誰が僕のデスクの周りを梱包したかなんて、今となっては知りようがないし、覚えている訳もない。UCSFが公式に依頼した引っ越し業者が、その引っ越し過程で依頼主の物をくすめ盗っていくとは、僕の感覚でははなはだ信じがたい事だった。

結局、ラボのコンピュータはでてこなかった。うちのラボのボスが激怒して、同じコンピュータを引っ越し業者にすぐに弁償させた。でも、僕たちにとってはコンピュータよりもそこに入っていたデータの方が大事だったので、取り返しがつかないことにはかわりない。僕のMOディスクドライブはというと、まだ交渉をしている所だ。もう、怒りと呼べる物は湧いてこない。不思議と静かだ。ただ、つらつらと考えるのは、このような草の根の部分でのモラルの低さ、“人の物を盗ってはいけない”という社会活動をする上で前提となる常識が共有されていないという危うさは、アメリカ社会にとっては大きなコストになるのだろうと言うことだ。見ず知らずの他人を決して信用しない、というのはアメリカ社会で生きる人達には常識なのだけれども、そのような疑心暗鬼が拡大すると、社会に対する不安が増加し、アメリカのアキレス腱になってしまうのではないかと思っている。




Posted at 10:57 | エッセイ | COM(0) | TB(0) |
2005.03.03

引き裂かれた国のカツ丼

2004年大統領選挙の翌日、僕たちの職場は、それはもうお葬式のような空気感の中にあった。誰も笑顔を見せなかったし、人がたくさん働いているにも関わらず、奇妙な静けさが辺りを取り囲んでいた。僕は、あの薄暗い朝の事を、僕らを包み込んでいた悲痛な静寂の事を、おそらくずっと忘れないだろうと思う。あれは、本当に特殊な種類の静けさだったのだ。この話は、その落ち込んだ空気の中で、僕が実際に見聞きした物である。もちろん、話の細部には多少手を加えて、話の流れを整えた部分もある。でも基本的には、あの日の空気感の中に漂っていたリズムや、その夜に話した人々の話し声のトーンを基調にして、この話を綴った。

ブシュ大統領が再選された日の夜、僕は「ダイナゴン」という名の日本料理屋に一人でご飯を食べに行った。そのレストランは近くを車で通りかかって見つけ、ずっと気にはなっていたのだが、それまで行く機会も無く、その夜が始めての訪問だった。そのお店は、ちょっと治安の悪い地区にあるために、夜一人で歩いて行くことをためらっていた部分もある。数ヶ月前、試合の直後に野球を見に来ていた男がギャングとトラブルになり、撃ち殺されたのも、このお店すぐ前の辺りだ。

  店に入るなり、僕は奇妙な直感におそわれた。何かが変だ。でも最初は、何が変なのか分からなかった。薄暗く小綺麗なその店の半分は大きめのカウンターになっていて、何人かがそこでテレビのフットボールを見ながらビールを飲んでいた。残り半分はテーブル席で、3組ぐらいの客がお箸を使って料理を食べていた。どこにでもあるまっとうな風景だ。でも、そこで僕は、ハタと気がついた。10人以上いるお客がみんな若い白人なのだ。サンフランシスコに住んでいる人なら分かると思うが、この多国籍なサンフランシスコの街でおいしい日本料理屋に行くと、客の半分程度かそれ以上はアジア系の人が占めているのが普通なのだ。全員が白人でしかもすごく若いというのは、僕の感覚では非常に違和感があり、これは場違いな日本料理屋に入ってきてしまったかなという予感は、その時点ですでに僕を襲っていた。

ピアスを耳だけではなく瞼にもつけた、ちょっとこわもてなウェートレスに、おそるおそるカツ丼を注文すると、しばらくしてかなりぶっ飛んだ料理が僕の前に置かれた。僕の前には、平たい皿の上に、右にライスの山、左にカツが、例えて言うならばカレーライスのように一部重なり合って並んでいた。その本来カツ丼であるはずの、カツは、トンカツをだしの全く入っていない卵だけでとじてあるだけの代物だったし、しかも、その卵にまるで味がついていないので、トンカツの入った卵焼きとでも呼ぶべき物であった。しかし、そのカツ丼の恐怖はそこからが本番で、その卵で綴じてあるトンカツを持ち上げて、ご飯と一緒に食べようとすると、なんと、そのトンカツとご飯の間にぎっしりと薄切りの椎茸が敷き詰められているではないか。その椎茸は、巻きずしに使うような甘いあじつけのしてある物で、僕はトンカツ入り卵焼きと、甘い椎茸と、ご飯を一緒に口にほおばり、異国で暮らす外国人の辛苦と思いながら飲み込んだのだった。

なんて一日だ。ブッシュ当選で始まり、ぶっ飛んだカツ丼で終わるとは。大統領選挙の投票が行われた昨日の昼、出口調査ではケリー優勢とのラジオ実況中継を聞いて、僕は気分が良くなっていた。しかし、夜になり票を開けてみると、前回の選挙で大接戦だったフロリダをあっけなくブッシュが取ってしまい、勝敗を決するオハイオでもすぐにブシュ絶対的有利な状況に陥ったのだった。僕はその事で仕事を続ける気力を失ってしまい、家に帰ってテレビをつけると、人々がケリーを支持したサンフランシスコのローカルテレビ局のキャスターは悲痛な顔で、「これはアメリカという国を前に進めようとするのか、後ろに戻そうとするのかの選択なんだ。」と呟き、それとは対照的にブシュの地元テキサスのCNNセンターでは、コメンテーターたちが興奮気味に、「51%のアメリカ人がブッシュに投票したんだ。オハイオの不在者投票なんてどうでもいい、すぐにブッシュが再選されてしかるべきだ。」と喜んでいて、その温度差にさすがに僕も少しびっくりした。

有名な話だが、この選挙でアメリカという国は、赤い州と青い州に分断されてしまった。もちろん赤い州というのは、真ん中の方の比較的貧しくて保守的な州のことで、青い州というのは両端の海岸沿いにある豊かでリベラルな州の事だ。このサンフランシスコはというと、青く豊かなカリフォルニア州の中で最もリベラルな街だし、僕が働いているUCSFはそのリベラルな街の中でも特にリベラルな環境であるので、周りの人達はすべてブッシュを嫌い、ケリーを支持していた。それだけに、次の日、ブシュ大統領が当選された朝には、UCSFで働く僕の周りの人達は誰も口をきかなかった。というか、口をきく気力さえ失ってしまっていたという方が正しいのかもしれない。あと4年、あと4年も僕たちは正気を保っていられるのだろうか? 悲痛な顔をしている隣の席のアメリカ人に、小さな声でどうしてアメリカの人達はあんなブッシュに投票したんだよ?と聞くと、彼は、多くのアメリカ人は社会のモラル(と彼等が思っている物)を守るためにブッシュに投票したんだと思うと答えた。でも僕が、そのモラルというのはキリスト教の価値観に基づいた、人工中絶の禁止であったり、ゲイの結婚の禁止であったりするわけで、イラクで無数の市民を撃ち殺したり轢き殺したりすることは“モラル”の枠の遙か外側にあるわけだ、と迫ると彼はあまりにも悲しそうな表情をしてしまった。そんなことは、サンフランシスコに住む、高い教育を受けた人達の間では分かり切った事なのだろう。だからこそ、彼等はこの選挙結果に強い痛みと恐れを抱いているのだ。誰よりも、この結果を痛んでいるのは、当事者である彼等なのだ。良くも悪くもここは彼等の国なのだし、彼等には他に逃げ場所がないのだ。この赤と青に引き裂かれた国の他には。

「ダイナゴン」のカウンターの中から、店のマスターらしいアジア系の初老の男性が、カツ丼を食べている僕をちらちらと見ていた。言うまでもなくその時までに僕が確信を持ったことは、これは絶対に日本人の作ったカツ丼ではないということだった。旨い不味いの差こそあれ、日本人はカツ丼をこんな風には絶対に作らないし、またそれを客に出さない。だから、そのマスターが「日本人の方ですか?」と僕に日本語で話しかけたときには、正直とてもびっくりした。そうです、と僕が答えると、マスターは赤松と申します、よくいらしてくださいました、と熱燗とお銚子を持って僕の席に来た。きれいに禿げあがった頭とそれを覆う色つやのよい肌のせいで、赤松さんの年齢は一見したところでは分からなかった。すでにカウンターの中で熱燗を相当飲んでいたらしく、頬やおでこが少し赤くなっていた。二人で熱燗を飲みながら、もうどれくらいこちらにいらっしゃるのですか?と僕はアメリカで初対面の日本人に対してよくする質問をした。

「私はここで生まれた日系3世です。キャンプで育ちました。」
と赤松さんは答えた。
「キャンプの事は知ってますか?戦争中、この国にいた日系人はみなキャンプに収容されとりました。この日本語も、キャンプで学んだんです。」
 僕も、日系人がキャンプと呼ぶ強制収容所の事は知っている。第二次世界大戦中、日系アメリカ人家族は、敵性外国人であるという理由だけでツールレイクなどの強制収容所に隔離されていたのだ。でも、強制収容所で育ったと言うことは、赤松さんは実は70歳よりも年上だという事だ。一見とても70歳には見えない。
「私の父親はアメリカで生まれた2世です。父親の家族はロサンゼルスで商店を経営していました。母親は、日本の佐賀から父親の所に嫁いできました。だから母は日本人です。でも、戦争が終わりキャンプから帰ってみると経営していたお店からは、すべての商品が持ち去られており、住んでいた家にもすでに他の家族がすんでいました。私の家族はすべてを失ったんです。本当に築いてきた物すべてをです。さらに酷いことに、生活を奪ったアメリカ政府に激怒して、反政府運動を起した父親は捕まってしまい、すぐにアメリカからの国外追放処分を受けてしまいました。アメリカは、日本人なんて人間だと思っておらんのです。大変な時代の、大変な時期でした。しかたなく私の家族は佐賀にある母親の実家に身を寄せることにしたんです。1946年の事です。家族で佐賀の母親の実家に身を寄せる際、広島も通りました。それは一面の焼け野原でした。佐賀に身を寄せても、私がアメリカ生まれのアメリカ人で、日本語もあまり上手くなかったために、周りの人達は私の事をひどく憎みました。“アメリカ人は出て行け”と石も投げられました。それこそ、口には出せないような酷いしうちもたくさん受けました。それでも、なんとか生きなければならなかったし、そこしか私たちが生きられる場所がなかったので、必死に佐賀弁を憶えました。そしてやっと、私も成人し仕事を得、周りの日本人達に受け入れられ始めた頃、私はアメリカに徴兵されたのです。朝鮮戦争でした。私たち家族を追放した母国アメリカのために、私は朝鮮半島で同じアジア人である朝鮮人を殺さなければならなかったのです。」

 赤松さんは日本語と英語を半々で語ったが、その根底に流れる物語がとてもヘビーだったので、僕はただただ聞き入ってしまった。

「ご覧なさい、アメリカはイラクでまた全く同じ事しよるでしょ。この国は何もかわっとらんのです。だからこそ、今日ブッシュは再選されたんです。どうして日本にいる人達はアメリカを尊敬するんですか?あの小泉のバカタレがどうして、ブッシュなんかにしっぽを振り続けるのか、私には全く理解できんのです。」
 それから僕たちは、今回の選挙について話した。どうして真ん中の赤い州では、情報が正しく伝わらないのかについて。でも、どれだけ話しても、選挙の結果は変わらないし、ブッシュは大統領でありつづけるのだ。誰かが言ったように、僕たちは時代を選べないのだ、与えられたその時代の中で生きていくことしかできないのだ。そして、話の最後に彼はこう言った、
「私はこの二つの目に、有りとあらゆるものを焼き付けてきたんです。だから、私は人間という種が同じ人間に対していかに残酷になれるかという事を、この骨身にしみて知とるんです。」

 僕は、その時の赤松さんの目に一瞬だけ灯った暗い光を見逃さなかった。その光の軌跡が、僕にこのカツ丼の謎を教えてくれている気がした。おそらく、もう百年も前にアメリカに移住した日系人達の背負った辛苦の歴史が、カツ丼の味となって、何世代か後の僕にこういう形で降りかかって来ているのだと思った。そう思うと、あのぶっ飛んだ味も、なんだか感慨深くて。


Posted at 05:29 | エッセイ | COM(0) | TB(0) |
2005.03.01

-今は亡きカート・コベインのための-

僕が、初めてシアトルの町を訪れたのは、カート・コベインが自殺をした後のことだ。冷たい雨の降り続く冬が終わり、冷涼な夏が始まる6月にシアトルに降り立った。冬の長雨のために、家に閉じこもりがちなシアトルっ子達も、この季節には、街やピューゼット・サウンドの島々に繰り出して、美しい季節を謳歌している。

カート・コベインが死んでしまった今では、すでに伝説となっている彼のNirvanaというバンドを、僕より若い世代の人は知らないかもしれない。90年代の初めに世界中を震撼させた、有名なバンドだ。

一般的な基準から見れば、ボロボロとしか表現できない服をまとい、宿命的にドラックと暴力にまみれ、ステージの上で暴れ回って、ギーターやステージセットを壊して回るNirvanaというバンドの演奏を、多くの保守的な層の人達は、怪訝な表情で観ていたものだ。カートの作った”Rape me”という歌は、その歌詞が過激すぎて、あのMTVですら放送するのを拒んだ事で有名だ。ただ、「Rape me my friend」と歌う、カートの歌声にきちんと耳を澄ませれば、その表層の暴力性とか、怒りとか、のもっと内部に、彼の魂と言うべきものの美しさを見ることが出来る。それは、まるでかくれんぼをしている子供のように、いつもは隠れてはいるが、きちんとそこにいる。彼が幼児期に受けた傷や、社会で名声を得る事の代償として失った正常さや、それこそ彼を自殺にまで追いやったものたちに取り囲まれてはいるが、彼の深層は繊細で、優しく、美しい。

そのカート・コベインが、シアトルで生まれたグランジ文化を世界に広めていた80年代の終わりから90年代の初めまでを、僕は日本で過ごしていた。だから僕は、カートの巻きを越した熱狂を生で体験したことはない。当時、あまり幸せとは言えない高校生だった僕は、言葉の壁の向こう側からあふれてくる、Nirvanaの新しい音に夢中になり、その音を通してカートの表現しているものの美しさに打たれた。あの暗い日々、音楽だけが僕を支えていた。だから、シアトルの郊外にある別荘で、カートの死体が見つかった時は、まるで自分自身を支えているものを失ったような気がした。カートは、カートを取り巻く狂気のなかで死を選び、僕は僕を取り巻く狂気のなかで、自分の歩む方向すら見いだせずにいた。本当に1994年は、今思い出しても、憂鬱で、教訓的な年だった。

初めて訪れた1995年のシアトルの町は、Nirvanaやグランジの熱狂からは醒め、落ち着きを取り戻しつつあったが、町の至る所にその熱の余韻を見ることができた。Subpopの直営レコード店で働く店員のファッションや、fake IDを駆使して忍び込んだミュージッククラブで流れる音楽や、町の人達の直の思いでを通して触れる残像としてのカートや、そういった何もかもの中にだ。

そういったすべては、僕をゆっくりと癒し、開放していった。音楽を通して知ったカートの姿を、シアトルの町の中で残像として再確認することで、僕はより深く彼に近づけた気がした。また、何事にもオープンで、公正な、アメリカ文化の良い部分も、暗く沈み込んでいた僕の心を快復させるために、役だったのだと思う。高校生の頃、僕の周りの人々は、判を押したように画一的な考え方をする人達だった。その中で僕は、あまりにも異教徒的で、圧倒的に孤独であった。窒息寸前の僕を、多様性を許容する文化が助けてくれた。古い友達は、半年後にシアトルから帰ってきた僕がずいぶん明るくなったと言ったほどだ。

あれから、10年近くの歳月が流れ。気がつけば僕はカートが亡くなった年齢にさしかかっている。今でも、Nirvanaの音楽は好きだが、10代の僕が感じていたような、音楽に対する飢えた熱情はもう抱けない。良くも悪くも、年を取ったのだ。ただ、結局、アメリカの地で職を得て働くようになった今の僕を見ると、シアトルのマウンテン・レーニエの山小屋の暖炉や、ピューゼット・サウンドに浮かべたボートの上から見た箱庭のようなダウンタウンや、そんなシアトルの思いでの何もかもが、僕を助け導いて来たのだろうということだけは、疑うすべもない。



Posted at 10:53 | エッセイ | COM(0) | TB(0) |
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