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2005.03.01

-今は亡きカート・コベインのための-

僕が、初めてシアトルの町を訪れたのは、カート・コベインが自殺をした後のことだ。冷たい雨の降り続く冬が終わり、冷涼な夏が始まる6月にシアトルに降り立った。冬の長雨のために、家に閉じこもりがちなシアトルっ子達も、この季節には、街やピューゼット・サウンドの島々に繰り出して、美しい季節を謳歌している。

カート・コベインが死んでしまった今では、すでに伝説となっている彼のNirvanaというバンドを、僕より若い世代の人は知らないかもしれない。90年代の初めに世界中を震撼させた、有名なバンドだ。

一般的な基準から見れば、ボロボロとしか表現できない服をまとい、宿命的にドラックと暴力にまみれ、ステージの上で暴れ回って、ギーターやステージセットを壊して回るNirvanaというバンドの演奏を、多くの保守的な層の人達は、怪訝な表情で観ていたものだ。カートの作った”Rape me”という歌は、その歌詞が過激すぎて、あのMTVですら放送するのを拒んだ事で有名だ。ただ、「Rape me my friend」と歌う、カートの歌声にきちんと耳を澄ませれば、その表層の暴力性とか、怒りとか、のもっと内部に、彼の魂と言うべきものの美しさを見ることが出来る。それは、まるでかくれんぼをしている子供のように、いつもは隠れてはいるが、きちんとそこにいる。彼が幼児期に受けた傷や、社会で名声を得る事の代償として失った正常さや、それこそ彼を自殺にまで追いやったものたちに取り囲まれてはいるが、彼の深層は繊細で、優しく、美しい。

そのカート・コベインが、シアトルで生まれたグランジ文化を世界に広めていた80年代の終わりから90年代の初めまでを、僕は日本で過ごしていた。だから僕は、カートの巻きを越した熱狂を生で体験したことはない。当時、あまり幸せとは言えない高校生だった僕は、言葉の壁の向こう側からあふれてくる、Nirvanaの新しい音に夢中になり、その音を通してカートの表現しているものの美しさに打たれた。あの暗い日々、音楽だけが僕を支えていた。だから、シアトルの郊外にある別荘で、カートの死体が見つかった時は、まるで自分自身を支えているものを失ったような気がした。カートは、カートを取り巻く狂気のなかで死を選び、僕は僕を取り巻く狂気のなかで、自分の歩む方向すら見いだせずにいた。本当に1994年は、今思い出しても、憂鬱で、教訓的な年だった。

初めて訪れた1995年のシアトルの町は、Nirvanaやグランジの熱狂からは醒め、落ち着きを取り戻しつつあったが、町の至る所にその熱の余韻を見ることができた。Subpopの直営レコード店で働く店員のファッションや、fake IDを駆使して忍び込んだミュージッククラブで流れる音楽や、町の人達の直の思いでを通して触れる残像としてのカートや、そういった何もかもの中にだ。

そういったすべては、僕をゆっくりと癒し、開放していった。音楽を通して知ったカートの姿を、シアトルの町の中で残像として再確認することで、僕はより深く彼に近づけた気がした。また、何事にもオープンで、公正な、アメリカ文化の良い部分も、暗く沈み込んでいた僕の心を快復させるために、役だったのだと思う。高校生の頃、僕の周りの人々は、判を押したように画一的な考え方をする人達だった。その中で僕は、あまりにも異教徒的で、圧倒的に孤独であった。窒息寸前の僕を、多様性を許容する文化が助けてくれた。古い友達は、半年後にシアトルから帰ってきた僕がずいぶん明るくなったと言ったほどだ。

あれから、10年近くの歳月が流れ。気がつけば僕はカートが亡くなった年齢にさしかかっている。今でも、Nirvanaの音楽は好きだが、10代の僕が感じていたような、音楽に対する飢えた熱情はもう抱けない。良くも悪くも、年を取ったのだ。ただ、結局、アメリカの地で職を得て働くようになった今の僕を見ると、シアトルのマウンテン・レーニエの山小屋の暖炉や、ピューゼット・サウンドに浮かべたボートの上から見た箱庭のようなダウンタウンや、そんなシアトルの思いでの何もかもが、僕を助け導いて来たのだろうということだけは、疑うすべもない。


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Posted at 10:53 | エッセイ | COM(0) | TB(0) |
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