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2005.09.11

「あかね空」

友人に勧められるままに、山本一力の「あかね空」を読んだ。時代小説を読んだのは高校生の頃以来だと思う。ただ、その友人はつまらない事で僕の時間を無駄にするような種類の人ではないので、その人が面白いという物には、きちんと向かい合ってみる価値があるだろうと思って読んだ。

僕は昔からそうやって本に出会ってきたのだ。上原隆の本にも、池澤夏樹の本にもそのようにして出会った。本というのは不思議な物で、きちんと時間さえかければ渡るべき人の手に渡るように出来ているのだ。

「あかね空」も読むからには、今の時代に“時代小説”なんてと斜に構えて読むのではなくて、公平な気持ちで読んでみようと思った。どんなに陳腐に響こうとも、何かを学び取るために必要なのは、愛情と理解のある姿勢なのだ。

結果的には、この本は圧倒的なエンターテイメントであった。昼下がりのビーチに寝ころんで読み始めたのだが、余りに貪るように読んだために、読み終わって、はたと気付いた時にはすでに日が陰りはじめていた。そして、若干風の吹きはじめた夕暮れのビーチで、少し波の高まった海を見ながら僕はとても暖かい気持ちに包まれていた。本の中で描かれた深い家族愛に打たれたのだ。

この話は、京の腕の良い豆腐職人である永吉が、一人で江戸に移り住み、裏町で豆腐屋を始めて所帯を持ち、やがて息子達の代になる頃には表通りに店を構えるようになるという親子二代にわたる物語である。その長い時間のなかで、永吉の家族達の思いは、何度も行き違い、その結果傷つけ合い、バラバラになりそうになるが、それでも最後は団結してより大きな困難を乗り越えてゆく。それぞれの家族の思いを、それぞれの視点から交互に辿って描き出し、それぞれのすれ違いが、もう後戻りできない臨界点に達しそうになる最後の瞬間に、それを一気に融和させえる作者の力がすばらしいし。その融和の奇跡の中に読者は現代社会が失いつつあるノスタルジックな家族愛を見るのだと思う。

ただ、読み終わったときに僕を包んだ暖かい波が去り、太陽の沈み行く海の前で冷静になって考えた時、僕は、これは時代小説という舞台の上に乗せないと機能しえない物語だと痛感する事になった。江戸時代の長屋におそらくあったであろう“下町の人情”と、“圧倒的な社会的抑圧”という、仮想的な装置の上でないと、おそらくこの物語は力を持てないだろうと。

それは、同じ家族愛というテーマで、現代社会を舞台に村上龍が書いた「最後の家族」では(その中でも家族は同じようにすれ違い、傷つけ合ってしまうのだが)、家族のメンバーそれぞれが自立し、最終的に家族がバラバラになってしまうことで、真に救われるという対極的な結末を迎える事からも分かる。この結末には、同時代を生きる人間としての非常に強い説得力を持つメッセージがあったし、逆を言えば現代社会を舞台にした「最後の家族」の中で、家族が再び団結してしまっていたら、僕は生理的にそれを受け入れられなかったと思う。

現代を生きる作家が、同じ時代を生きる読者に対して、読者が経験しえない古い時代を舞台に、しかもそこにあったであろう社会的装置を前提にして物語を物語る事が、公平な手段なのだろうかという疑問がしこりのように僕の中に残った。もちろん、「あかね空」のように、その舞台でないと語れない物語がある事は確かだが、おそらくそこが山本一力という作家の評価を分かつ部分であろうとも思う。

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Posted at 15:40 | 未分類 | COM(4) | TB(1) |
2005.09.08

Sequoia King Canyon National Park




 セコイア・キングキャニオン国立公園にキャンプに行っていた。セコイアの森の中を歩いていると、熊の親子に出会った。子熊が二頭もいた。こうやって書いてしまうと、なんとも漫画チックだけど、実際にはちょっと怖かった。母熊は立ち上がって、シーッってこっちを威嚇してくるしで。迫力満点のトレッキングだった。

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